自己の価値 5


先に述べたことは、「こころの病い」といわれているものが「病気」として扱われるべきではなく、人生問題であるということを意味している。
精神科で扱われる「病気」が以上のような性格のものであるので、精神科医の役目は「患者さんとの共同存在者」ということになる。
それは一般的な他者とのあいだでの「共同存在」とは、いささか意味が異なるかもしれない。
一般に我われ「自我に拠る社会的存在」は他者との関係が重要な意味を持っている。それらの関係が活きている限りは、苦しくても乗り越えられるだろう。
その人間関係に翻弄されて傷ついた人たちは、人との関係に希望を見出すことができないでいる。
そういう場合の「人間関係の最後の拠り所」が精神科の診療になる。
そこでの精神科医の重要な役目は、共感性で関係を造ることができるかどうかである。
それは一般論でもあるが、相性がどうかといった個別性も問題になるだろう。  ’19.12.8.


自己の価値 4

「こころ」を問題とする場合、それぞれの「私」である自己を問うことになる。
簡潔にいえば、「自分自身に問いを向ける」ということである。
ということは、誰かに訊いて教えてもらう性格のものではないということである。
それは、「こころ」について、あるいは「自己」についての問いは永遠に不可知であるという意味でもある。
それは、生きている人間の身体が問いの対象になっているときに、死体解剖をもってそれに換えることはできないことにも通じている。
死体は自我の問いの外側にあるモノであるが、「生きている身体」はそれを問う自我にとって外界のモノでもあり、同時に内界のものでもあるのである。
ついでながら、問う対象が自我にとって外界のものであるかぎりは一応の完結には至り得る。
だが、それが内界のものでれば、「自我の武器」である意識が届くことが不可能な世界も含んでいるので、完結は不可能であるというのが、その根本性格である。
ちまり、それは人間の能力を超えているという意味でもある。
そのことは「こころの病い」といわれている事態は、不可知のものを必ず内に含んでいるということを意味している。
更にいえば、「こころの病い」は、「自己の存在」が未知の理由で「自己」が立ち行かなくなっている姿である。
それは人生の途上での「遭難」といった事態であるともいえるだろう。
その「遭難」は我々の能力では解決不可能なほどの深みを持っている可能性もある。
だから「途方もない」のであるのだが、その「途方もなさ」は可能性にも絶えず道を開き得るということでもある。                  ’19.12.8.


                    


自己の価値 3

「恥を知れ」という言葉がある。
それは、おそらく一般の動物にはない。
そこでは力較べで差別化が図られている。
人間が力づくで何かの地位や権力を手にすると顰蹙を買う。
恥知らず、ということになる。
動物は力づくで、人間は知恵比べで秩序を造る。
いずれにしても、秩序がなければ安心が得られないのであるが、両者の違いは自我の有無にある。
自我に拠っている我々人間は、力づく、あるいは本能の赴くままに行動することを恥じとする。
自我は「引き受ける精神」である。
「引き受ける」ことは判断を伴うのである。
判断を伴わず、無反省に「引き受ける」ことは無責任に繋がるので、やがては自分自身に累がおよぶ。
職場で仕事を頼まれて「いいですよ」と心地よく仕事を「引き受けて」、やがて会社に行けなくなる人がある。
この場合は「引き受けて」いるのではない。
「断る」ことができないのである。
自我の機能を健全に保つには、原則的にキャパシティを越えてはならないのはいうまでもないだろう。
「断る」という自我の判断機能が不十分であるときに、こういうことが起こる。
そういう場合には不本意ながら、無責任といった事態になる。
(ちなみに、相手の判断を尊重せずに「引き受けさせる」ことを、場合によってはパワハラと呼ぶ。あるいは、狡猾な人間であれば、相手を暴力的に打ち倒す意識を自我の判断機能の背後に忍ばせることもあるだろう) ’19.12.7.

自己の価値 2

自我は実にちっぽけなモノである。
それを表しているのが、例えば、めまいである。
めまいは身体の病気でもあり得るが、心理的な意味づけをすると「つかみどころがない感覚」である。
だから耳鼻科で調べても、原因がわからないということも珍しくはない。
我われのこころは「自我に拠っている」。
「自我に拠る社会的存在」が我々の「私という自己」の実相である。
無限大に広がる大空を見上げたときに、自我は「掴みどころのなさ」、「途方もなさ」といった世界に直面することになる。
その「掴みどころがない」感じ、自我がおよびもつかない世界に当面したときにめまいが起こる。
自我が自我を超越した世界に直面すると、自我の関係機能は無効になる。
自我の機能は何事かと(意識によって)関係をつくることなので、人間の意識活動が停止するのである。

こころを語るとき、用語がとかく小難しくなる。
それは、こころが科学的世界ではないために、科学的用語ですべてを語ることができないからである。
こころは「意識化可能の世界」とそれが「不可能の世界」とで成り立っている。
その「不可能の世界」と「可能の世界」とは同列の関係ではない。
両者は比較を絶した関係である。
こころの世界に内在している比較を絶した無辺際な無意識界は、「名づけ得ないモノ」の世界である。
科学の世界は自我が主宰する世界の範疇での出来事なので、具体的な名を与えることが可能である。
つまり「名づけ得る」世界は、自我の能力が有効な世界にかぎる。
それが我われの現実相である。
圧倒的な勢力を持っている「名づけ得ない世界」、現実相ではない世界も「こころにはアル」ということである。
その名づけ得ない世界は、宇宙的無限に繋がっている。
その「途方もない世界」がこころに及んでいるのが無意識界である。
無意識界は宇宙的無限と「自我に拠る社会的存在」である我われ人間を橋渡ししているのである。
それが科学的に見た、人間存在の俯瞰図である。
だが、人間存在そのものを「俯瞰する」資格も能力も人間にはない。
つまり、こころの全体を科学的に語ることは本来的に不可能であるのだが、そういうことを踏まえた上で, 敢えて、こころを言葉で語ろうとすれば、「新奇な用語使い」にならざるを得ないのである。
無意識界は宗教的世界とも呼ばれている。
それは誰もが分かるような説明は科学の領域、言葉を換えれば自我の機能が活きている世界に限るのだが、こころはそれをはるかに超越した領域もあるといった意味である。
宗教的説話は科学的にものを考える習慣がある人には、馬鹿げた無駄話に聞こえるだろう。
だが、人間の問題を科学の言葉で語りつくそうとすることこそ馬鹿げた話である。
名づけ得ない世界は、俯瞰することが不可能であり、語り得ない世界なのである。             ’19.12.6.







自己の価値 Ⅰ

自尊感情といわれているものがある。
自分の存在価値への思い、といった意味である。
この感情は重要である。
自尊感情が低いと自己否定感に傾くからである。
人生の全体が暗くなるからである。
生きる意志と生きる意味とが薄れて感じられるからである。
自尊感情の低落と「こころの病い現象」とは密接な関係がある。
我われは他人と較べて自分の価値を図る習性がある。
他人はどうしても気になるものである。
他人との関係をうまく造れないと生きる不安が強くなる。
それが一般である。
だが、本当は自分自身との関係を築くことに鍵がある。
それは自己自身との関係になる。
いずれにせよ、「(社会的)自己」を導く主宰者は自我である。
そして自我は自己の内界(無意識界)にある自己自身といった「自己」の礎えとの関係を形づくることに本分がある。
その無意識界は、それぞれの「自己」が生まれ出てきた根源である。
芸術家などの天才たちは、このこころの内界を自ずから志向する自我の持ち主である。’19.12.3.