(こころに関して)「治る」ということ 1

「この病気は治るでしょうか?」という質問を、しばしば受ける。
それは、もっともなことであるのだが、現実には、この問いは、私は完璧な人間になれるだろうか、といっているに等しい。
「もっともである」というのは、患者さんたちが、自分の問題を「病気」と認識しているのであればということが前提になってのことである。
精神科も医学の一端にあるので、受診する人たちが「病気」と感じているのは当然である。
この認識の仕方の問題の下では、「病気」であれば、「治る~治らない」ということになってしまう。
従って、「病気」であれば医者は全能者に等しいことになるのである。
そして、患者の皆さんは全能者の下での信者になる以外にないことになる。  ’20.1.15.

「引きこもり」の問題 4

精神医療は科学の世界ではない。
精神医療の対象はモノではなく「こころ(の世界)」である。
いわずもがなともいえるそのことが疎かにされているのは、科学が人間の迷妄を解き放った威力と無関係なわけがない。
科学は明るい世界の王である。
それは「人間の勝利」であった。
では、その以前は何が王座にあったのか?
魑魅魍魎が棲む「昏い時代」を支配していたのは神々であった。
科学の時代に神々の存在理由はなくなったように見える。
だが、人間は争いと共にある。
戦争の脅威はなくなるどころではない。
科学兵器という科学の産物が、人間の殺し合いの道具として進化しつづけている。
科学によって便利な社会になるにつれて、電気の需要が高まるばかりである。
人間の安寧の追求などよりも、資本主義的効率が常に優先される。
その挙句に、地球規模の温暖化現象が人類を危機に陥れている。
この悪循環を止める有効な手立てを人類は見出していない。
禅僧の故・鈴木大拙氏は、「(宗教的世界との対比である)相対的世界(自我に拠る社会的存在と同義である)では、どこを向いても喧嘩ばかり」と述べている。
自然科学至上主義は、自我至上主義と同義である。
その明るい世界には魑魅妙量も神々も棲むことができない。
だが、それは「こころの外界」での話である。
「こころの内界」にある無意識界は無限性の世界である。
「こころの外界」にばかり眼を向けて切り開いた科学的世界は、干からびた精神と世界観と生きる無意味さに対して答える術を持っていない。、
「宗教的世界」とも呼ばれている無意識界、昏い世界に宿る叡智に、我々が救われる知恵を学ばなければならない。
精神医療とは、こうした試みになる。
現代の「精神障害」は「精神の異常現象」と捉え直して、このような試みを必要としているように思われる。        ’19.12.30.



「引きこもり」の問題 3

いわゆる「引きこもり」は精神の病理現象であるのは断るまでもない。
ということを、わざわざいう意味は、「引きこもり」は精神障害ではないということをいいたいからである。
精神科での「用語」の使い方は、内科などの身体科とは根本的に違う。
身体科は科学の世界である。
だから考え方に紛れがあってはならないのが原則である。
一方、精神科は科学の世界に位置してはいない。
もっとも現代の診断基準となっているICD-10(国際疾病分類)は、科学の立場を取っている。
ICD-10は「現在のところ不満足な基準であるが、‘原因’に基づいた疾病分類ができるまでの辛抱・・・」といっている。
医学は科学なので、精神医学も医学の一分野である以上は科学でなければならない、というドグマに基づいてのことである。
そのために「・・・病」の代わりに「・・・障害」という用語を用いている。
「・・・病」というのは原因に基づいた命名という意味があるので、原因が確定されるまでのあいだは、「障害」という用語を充てるということである。
だが、こうしたことは「見解の相違」といったものではない。
というのは、「こころ」には無意識界という無限大の世界があるからである。
科学が通用するのは自我の力がおよぶかぎりでの世界(それは有限の世界という意味になる)に関してである。
科学の成立要件は、新しく創り出されたものの再現性にある。
科学の世界では、実験を繰り返して再現性が確かめられなければならない。
紛れはあってはならないのである。
そのことは「自我の力が及び得る世界」ということを意味している。
自我には対象となるものを意識でつないで明るみの世界をもたらす、という特質がある。
その「明るい世界」でのみ科学は可能である、といえる。
だから、科学の運用は万人がうなづき得るという特質を持っている。 ’19.12.30.