個人的な事情 2-6 ( 自分らしく生きるということ 6

死は不可解である。
精神の病理現象はこのことと関係がある。
精神の病理現象は人生の意味づけが難しくなったときに起こり得る。
不登校の問題を例に取ると、「学校に行く意味が分からなくなる」といえるのではないか?
意味と無意味とが人生問題では交錯している。
「人生とは何か」というのは難問であるが、ひとつには「意味をもたらすこと」といえるように思われる。
意味は「行為」によってもたらされる。
「行為」とは、「いま、このとき」に「与えられている生命的エネルギー」をほどよく消費することといえるように思われる。
我われは生きているかぎり、「生命的エネルギー」を、「与えられたもの」として持っている。
それは自明ではないだろうか?
その「生命的エネルギー」が尽きたときが「自然の死」である。
人生を全うするというのは、ひとつには「生命的エネルギー」が尽きるまで生きることである、といえるのではないだろうか。
実際には人は何かの病気で死ぬ。
それは与えられている生命的エネルギーを使い切らずに死を向かえるという意味になる。
その場合は「自然の摂理」に反していることになる。
だから「病気」なのである。
「病気」は自然の死と違って、何等か招き寄せるモノなのではないだろうか。
それを踏まえると、病気にならないような生活の仕方がそれぞれの責任になる。
「与えられている生命的エネルギー」は尊重しなければならない。
そういう生き方を模索するのが人生ではないのだろうか。
いずれにしても、「自然の摂理」に反しないような生き方が「自己の責任」である、といえるように思われる。
だが、その自然の摂理はどのようにして明らかにできるのか?
人類史に残るある文豪が、死の床で「これでいい、これでいい」という言葉を残したと伝えられている。            ’20.4.15.

個人的な事情 2-5 ( 自分らしく生きるということ 5

「人生は不可解なり」という遺書を残して華厳の滝に身を投じた旧制一高の学生があった。
人生が不可解なのは当然である。
だが「不可解」は絶望の理由になるだろうか。
可解であれば、永遠の退屈になるだろう。
そうであれば、それこそ生きる理由はないのではないか?
不可解である世界という舞台を与えられて、そこにどのような「可解の生」を描くのかが我われ一人ひとりの課題である。
不可解であることは、そこに永遠性がある。
そして不可解であるが故に「汲めども尽きない泉」が湧き出る可能性が保証されているのではないのだろうか。
その無限性というキャンバスを与えられて、「自分の絵を描く」のが人生ではないのだろうか。
死は永遠性の保証である。
だから死は希望の源泉である。
私はそのように思っている。         ’20.4.14.

個人的な事情 2-4 ( 自分らしく生きるということ 4)

「名づけ得ない」世界というのは無意識界のことである。
それは「一様の世界」である。
言葉を換えると「全」または「無」の世界である。
ただし「名をつける」ことができるのは、自我が宰領できる範囲においてである。
無意識界は自我の宰領範囲を「超えている」ので、名をつけるとしても便宜的にである。
こういうことをいう理由は、こころには科学では律することができない世界があることの重要性を顕かにしておくためである。
我われは生まれ、かつ死ぬという有限性の世界を生きているのであるが、死は生の一切を無化する力を持っている。
死が持っている意味は何か、ということは究極の問いである。
このことを度外視して「こころの病気」は語れない、ということにここでの論点がある。
死は絶望か、というのは簡単な問いではない。
死が絶望であれば、そもそも生きる理由はないからである。
死は、むしろ希望の源泉ではないか、というのが取り沙汰されて然るべきではないかと私には思われる。       ’20.4.14.

個人的な事情 1-4 精神の病理現象1-4

病理的世界をどのように理解するのかが、ここでの課題である。
自我が主宰する世界は有意味の世界である。
自我の営為は「名づけ得る」ことが、その特徴である。
名づけ得るということは、「意味を与えることができる」ということでもある。
それら、「名を与え、意味を付与する」のは自我の仕事である。
つまり自我が機能するのは、有意味の世界においてであるといえる。
逆にいえば、「名づけ得ない」というのは自我の能力が無効であるという意味になる。
従って、その「名づけ得ない世界」は「無意味の世界」の別称であるということになる。
それらを前提として、人生とは何かといえば、自我が機能するかぎりでの世界、つまり「有意味の世界」を生きることといえるように思われる。
そして、その「有意味性」を無化するのが「死」である。
不安は生を無意味化する力を秘めている。
その不安感は自我の仕事を無意味化するモノとの関係で起こる現象である。
ということは自我の仕事を「監視しているモノがある」という意味を帯びる。
それは超自我とも呼ばれているが、その超自我は無意識界の住人である。
ということは、有限の世界の長としての自我が生きる意味をつかさどるのであるが、それは不完全性を免れ得ないので、自我の拠り所である無意識界によって、何等か罰せられる宿命の下にあるという意味を持っているといえるのだろう。
そのことは、自我の拠り所である無意識界が、自我の仕事を生み出す根拠であると同時に、自我の仕事を批判し、無化する力をも持っていることを意味しているようにも思われる。  ’20.3.24.


個人的な事情   8-3

我われ精神科医は自分のことさえ分かっているというよりは、何も分かっていないというのが実態である。
その知り得ない存在者を少しでも理解していくことを求められているのが精神科医である。
何かの専門的知識を持っている者が精神科医である、などとはいえないのである。
哲学者や思想家も人間存在という永遠に不可知なモノを問う役目を負っている。
それらの人たちは、時として同業者から「講壇学者」と非難される。
それは、オリジナリティの追求に徹しているか、社会に迎合していないかといった問題である。
我われ精神科医は思想家のような独自性は無用である。
患者さんたちといった実生活者が提起する諸問題が問題となるので、社会的な意味の追求になる。 '20.3.4.