小窓から 8

自己を見失うのは、この場合は、頼りとする他者が不在になるときです。
その「頼りとする他者の問題」は、「俗臭を潔しとしないこころのひと小窓から 7
しかしながら、「権力者」がどれほどのものかは多くの人々が知っています。
権力が人間的な腐敗と多かれ少なかれ絡むからです。
そういうことを半ば以上知っていても、「寄らば大樹の影」になるのが人間の嵯峨というものです。
誰もがそれぞれの「個性を歩む」ことができれば、それは理想社会というものでしょう。
そうはいかないのが「人間の嵯峨」である所以です。
誰もに「ひとに認められたい」こころがある以上に、人格が未熟であればあるほど、「完璧をもとめる」こころがあるから、「そうはいかない」のです。
それは「不完全性を生きる人間」の嵯峨というべきものです。
その「不完全性」があるが故に「完全」を目指す内的なこころがあるのです。
自分にないものを他人に同化しようとするこころがあるからです。
それが庶民のこころである一方、そうした俗臭を感じてそれらの列に繋がるこころにもなれないときに、他者からも自己自身からも見離された気分に陥ることにもなります。
そうした「人間的な在り方の宙づり状態」になったときに、支えを求めるのが、またしても「他者に」になりがちです。    ’20.6.16.

小窓から 7

しかしながら、「権力者」がどれほどのものかは多くの人々が知っています。
権力が人間的な腐敗と多かれ少なかれ絡むからです。
そういうことを半ば以上知っていても、「寄らば大樹の影」になるのが人間の嵯峨というものです。
誰もがそれぞれの「個性を歩む」ことができれば、それは理想社会というものでしょう。
そうはいかないのが「人間の嵯峨」である所以です。
誰もに「ひとに認められたい」こころがある以上に、人格が未熟であればあるほど、「完璧をもとめる」こころがあるから、「そうはいかない」のです。
それは「不完全性を生きる人間」の嵯峨というべきものです。
その「不完全性」があるが故に「完全」を目指す内的なこころがあるのです。
自分にないものを他人に同化しようとするこころがあるからです。
それが庶民のこころである一方、そうした俗臭を感じてそれらの列に繋がるこころにもなれないときに、他者からも自己自身からも見離された気分に陥ることにもなります。
そうした「人間的な在り方の宙づり状態」になったときに、支えを求めるのが、またしても「他者に」になりがちです。    ’20.6.16.

小窓から3  不登校の問題3

内向型のひとは、自我がこころの外側よりも内側に向かう傾向があります。
内側に向かう意味は、「自己」の根拠がこころの奥底にあるからです。
その自己の根拠は自己自身と呼ばれています。
何事もそれが存在するためには、根拠が必要です。
必要だから「在る」というよりは、現象が「在る」ためには根拠を必要とするのです。
外向型のひとの自我が、こころの外界、明るい世界に向かう傾向があるのも、内向型のひとの自我が、こころの内界、暗い世界に向かうのも、どちらも生まれつきのものです。
生まれつきのものは天与のものといい換えることができます。
天与などといえば、その非科学性を問題にするひともあるかもしれません。
科学が発達している現代は、科学的に説明できないものは信用できないという風潮があります。
しかし、それは人間の驕りというべきです。
人間の営為は自我に拠るのですが、その自我は無意識界を拠り所としています。
その無意識界にある叡智を拠り所にして、自我に拠る知恵が可能です。
科学は人間の知恵です。
その知恵は無意識界に在る「叡智」を拠り所にしています。
無意識界に在る「叡智」と「魂性」とは、我われ人間の知恵とこころの豊かさの基礎をなすものです。
人間の驕りは自然破壊につながるので、ひるがえって人間自身の上に災厄がふりかかる元となります。
人間的な豊かさは「科学的世界構成」といったものからは生まれません。
むしろ、逆に、それは人間のこころを貧困化させる理由になり得ます。
「モノよりもこころが大事」というのは自然の理です。
近年いわれている地球の温暖化現象は、そのことを如実に表しています。   ’20.7.10.





小窓から2  不登校の問題2

お仕着せの衣装を気にかけないタイプを外向型といいます。
外向型の人たちは明るさを演出することが得意です。
お仕着せの衣装であっても、明るい色を上塗りすることで傍目をよくする才覚があります。
それらのひとにも「影」があります。
「明」と「暗」とはコインの表と裏です。
「こころ」には意識と無意識とがあります。
意識は明るい世界です。
無意識は暗い世界です。
明るい世界をつかさどっているものは自我と呼ばれています。
暗い世界は自我の光が届かない世界です。
外向型のひとは暗さが苦手です。
自分の中にもある暗さを、できれば知りたくないと思っています。
とはいっても暗さはないわけにはいきません。
それらの人たちは暗いこころの他人を嫌います。      ’20.7.9.

   小窓から 6  不登校の問題6

人生とは何かというのは難題です。
というより答えようがない問いです。
となれば、一所懸命に生きるということになるのでしょうか。
その一所懸命に、ということは具体的には「いま、できることをする」ということになるのでしょう。
その「できること」には寝ていることも含まれます。
とはいえ、「寝ている」ことの意味が問われます。
そうしたことを踏まえると、生きることは意味を紡ぎ出すことであり、それと同時に判断力が問われるように思われます。
それらは自我の機能だからともいえます。
それらは、自我が適正に自己を運用しているかどうか、といった問題のように思われます。
過食症のひと、買い物依存に走るひとなどに対応を訊かれたときに、私は「判断をすること」といった提言をしております。
それは、「こころの親」にあたる自我が機能しているかどうかが問題だからです。
親があれば子があるように、自己組織は自我という親がいて、こころの内なる子供たちがいるという構図が描かれます。
その「子供たち」というのはいわゆる「インナーチルドレン」であり、生まれてこの方のすべての経験群のことです。
その経験群の中でも、幼少期のそれが大きな意味を持っています。
とりわけ、抑圧されている「子供たち」が持っている怒りと攻撃性とが問題です。
自我が現実の社会的な活動をするに当たって、意識下にある幼い人格たちの反攻を受けると、その分、現実界で使えるエネルギーが不足するのです。
例えてみれば当面している敵の軍勢と戦うときに、背後から自分の分身の攻撃を受けるといったことになり、「社会で戦う」気力がわかなくもなるのです。      ’20.7.12.