個人的な事情 1--2 精神の病理現象 1- 2

精神療法は医者―患者関係での意味の創出である。
我ながら仰々しい表現であるが、こころの世界は事物のそれではなく、現象的世界、イメージの世界であるということを踏まえている。
内科などの身体科では事物が対象になる。
そこでは患者さんの個性を問題にすることはない。
人間一般に共通する身体が対象となる。
Aという名の患者さんは現象的世界の住人である。
Aという人格の構図は、自我と無意識とこころの内外のさまざまな対象群とから成っている。
その自我が意識という糸で織りなす綾が現象的世界である。
「意識」はAなりDなりの人格を構成する要員として見るかぎり、「生きている証」である。
救急救命医は意識があるかないかで生死を判断する。
死体は、身体に付属する自我が、意識でこころを取り持つ能力を失ったことを意味する。
精神科医であるDについてもAと同様である。
自分では解決できない悩みを抱えているAさんが、Dの世界に入ることによってDの現象的世界の共同存在者となる。
そのことによって、AさんはDの患者になる。
AさんはDの世界の共同存在者として、「固有の悩み」を打ち明ける。
その「悩み」はDにとっても新奇なものである。
その「新奇なもの」は、人生問題、人間の存在問題に関わるものである。
それら「新奇なもの」は、「無意識に訊かなければ分からない」のである。
Aの自我がDの自我に問題を打ち明ける。
Dの自我はそれを「引き受けて」Dの無意識に問いかける。
Dの自我と無意識との協働によって得られたモノを、Dの自我がAの自我に受け渡す。
Aが得心すれば、A,Dのそれぞれの自我と無意識とのあいだで、いうならば「協定」が成立する。
そうした一連のことを精神療法と呼んでいる。
「精神療法は人間が人間であることの意味の創出である」ということには、以上のような意味である。               ’20.4.6.


個人的な事情 Ⅰ-1 精神の病理現象  1-1  

精神科の診療は自分との戦いである、といえばずいぶん気負ったいい方である。
だが、それがあながちいい過ぎとはいえないと私は思う。
というのは、精神療法は原理的には「未知なる自己の発掘」、あるいは「新たな自己の創造」といった試みだからである。
人間は謎に包まれた存在である。
自分がどういう存在なのか、人生とは何なのか、生の果てに死がある意味は何か、我われは何を目指して生きるのか、などといった「答えようがない」問題、難問以上の難問に
意識せずともさらされている。
人生は基本的に「不可解」である。
「解がない」人生にどういう意味を見出すかは「個々人の問題」である。
そういう人生の過程で「迷子になる」こと、「自分を見失う」ことは人類的テーマと無関係ではあり得ないのである。
精神科の診療は「目下の生活状況(家庭、学校、会社などの)で、人生の壁にぶつかって先へ進めない。不安でならない・・・」といった場合に,
精神科医が「その問題を共有する」ことによって成り立っている。
薬の処方もされるが、それは「薬で病気を治す」という意味ではない。
薬は利用するべきものである。
不安、抑うつ感などのこころの不調感をそれなりに整えて、問題に取り組む力をたかめるのは、本来的にそれぞれの患者さん自身の問題である。
精神科医は、その患者さんの求めに応じる「共同存在者」という立場にある。      ’20.3.31.