※月※日: 日記より 7

「こころの病気」が、いわゆる病気ではないとすれば何なのか?
概念的には「人生の壁にぶつかって存在のぬかるみに足をとられた」といったイメージである。 
それは自由の喪失でもある。
自由がなければ将来を開く意志も希望も持てない。
つまり人生が無意味に傾く。
それは絶望であり、こころの暗闇化である。
その暗さはどのように開いて明るく導けるのか?
信じるときに道は開ける。
暗さは明るさと裏表の関係にあるのだから、暗さがあれば明るさがどこかにある、ということである。
一途にこころが暗く沈むとき、それは生きる意志の喪失でもある。 ’19.11.12.
   
     

※月※日:  日記より 6

精神科の診療は自分との戦いである。
何かと戦うのは有意味を求めてである。
戦いに負けると人生が無意味に傾く。
その何かを乗り越えるときに人生が意味方向に傾く。
人生は刻々と意味と無意味とに分かれる。
かつて、ある患者さんに「いつも患者に毒を吐かれて辛くないですか」といわれたことがあった。
毒を吐かれると思ったことはないが、「暗い心」の話を訊く仕事には違いない。
暗い話を訊く仕事をすることでこころが暗くなることは滅多にない。
「暗い話」を「明るい話」に持っていくのが仕事の本筋である。
だから、この仕事は常に希望と共にあるといえる。
   暗さがなければ明るさはない。
だから明るい話だけを好む人との話は退屈である。 ’19.11.12.

日記より  5

 精神科に誤診はないという言い伝えがある。
 それは言い得て妙である。
 さまざまな医者が自己流の診療をしてもとやかくいわれる筋合いのものではない、という気分を正当化する根拠でもあり得る。
 かつて東大教授だった土居健郎先生が土居ゼミという私塾を運営していた。
 参加者が症例を出している演者に質問をする形で質疑応答をするのである。
 土居先生は、「キミはそれでも治療者なのか?!」、「キミがやっていることはただの茶飲み話とどこが違うのか」などといって罵倒すること
 もしばしばだった。
 土居教授がいっていることは、精神療法のやり方には形があるという意味を物語ってい る。                                              ’19.11.4.

日記より 4

  科学は現代の「明るく便利」な社会を作り出してきたので、そのかぎりでは「人間の勝利」である。
  何に対する勝利かといえば、「昏く迷妄する世界」への、ということになるのだろう。
  ニーチェが「神は死んだ」といったのも科学の進化を前にしてのことであった。
  科学がもたらした力は未曽有のことであったわけだが、現代の災厄をもたらしているのが、他でもない科学主義であるという笑えない現実が
  ある。
  ニーチェに借りていえば、「神は死んだ」理由が科学主義であり、「神の反攻を受けて危うくなっている」のも科学主義に起因する、といっ
  ても言い過ぎではなさそうである。                                      ’19.11.4.

日記より  3

  ‘こころの病気’は、‘薬で治す’ものではないというのは、「ふつうでいう意味での病気」ではないからである。
  「ふつうでいう意味での病気」というのは、生物学的な原因があるという意味である。
  原因(形態学的な、あるいは生化学的な原因)があり結果があれば、それは科学の範疇に入る。
  現代の診断基準は、WHO(世界保健機関)の専門部会が策定したICD-10に拠っている。
  ICD-10は「いつの日か「原因」が確定されるまでは(曖昧な)操作的方法に甘んじるしかないことで 
  我慢してほしい」といった意味の断り書きを付記している。
  つまり「病気」である以上は「原因」が特定されなければならない、というのは、医学界では世界の常識なのである。
  それは現代が科学主義の時代といわれている所以でもある。                      '19.11.4.

日記より 2


 ネットによるいじめ、中傷のニュースがしばしば報道される。
 闇に紛れて他人を中傷するのは、いうまでもなく卑怯である。
 夜陰に乗じる悪党の心理と近いともいえる。
 私個人も経験がある。
 「薬を大量に出されるので転医したらすぐに治った」・・・という中傷がネットに載っていると聞かされたことがある。
 仮に私の患者さんがしたことであれば一大事である。
 その場合は憤慨するよりは自分を恥じるしかないだろう。
 だが、そういう患者さんはいないと信じる理由がある。
 「そもそも、‘こころの病気’は‘薬で治す‘ものではない」ということを、折に触れて患者の皆さんにお伝えしているからである。’19.11.4.