個人的な事情  5

 新型コロナウイルスが社会問題になっている。
 この問題も人間が自然への畏敬の念を持とうとしないことと大いに関係がある。
 ウイルス、細菌と新薬の開発はいたちごっこといわれている。
 新しい抗ウイルス薬、抗菌剤はウイルスや細菌が変異して薬が効かなくなる。
 このいたちごっこに、最終的に科学が勝利を収めることはあり得ない。
 そうした考えは、自我が無意識を不要とするときが来るという妄念に等しい愚考である。
 人間が自然界に対して畏敬の念を持つ必要があるのは、端的に我われ人間が「自我に拠る社会的存在」だからである。
 その自我は無意識界に依存して存在可能といったシロモノなので、無意識界を無用とする自我などはあり得ないことである。
 その無意識界は「こころに及んだ大自然」といったシロモノである。
 現代は科学主義の時代といわれることがある。
 科学主義という概念は、魑魅魍魎が跋扈する前近代の暗く不便な世の中を科学が一新したことを踏まえている。
 それによって、明るく便利な時代が切り開かれた。
 現代のIT産業、医療技術や新薬、癌の克服、長寿化など人類の至福といった方向へ科学が寄与している。
 それらは科学の成果であることは紛れもない。 
 問題は、光は光だけで存在することであできない、ということである。
 光があるためには影の存在を不可欠としている。
 人間はどうしたって、ことの半分をしか生きられないのである。 ’20.2.12.


 

個人的な事情  3

自己が存在するためには他者の存在が不可欠であるのは、他者との協働で「全」を目指すこころのダイナミズムが活性化する(と想像される)からである。
同性同士の良好な関係は平和な喜び、満足感を醸し出す。
男女の関係では、いわゆるリビドーの流れ(性的、生命的なエネルギー)が活性化する。
取り分けて、男と女が恋愛をするとき、リビドーの流れは勢いをたかめる。
その熱情が両者の合体という「全」を束の間味わうことを可能にする。
そのように「自我に拠る社会的存在」としての人間は、不完全性を生きる宿命の下にある。
不完全であるが故に全を求める人間は、死によってはじめて完全性の世界に入ることになる。
死は自我が無意識界に没収されることを意味する。
自我の母体である無意識界に没収されることで、永遠の世界、無限性の世界、無の世界といった「名づけ得ない世界」に回帰するのである。
無知の知として、それは「在る」というべきである。
これも「科学的知」ではない。あり得ない。想像的知であるが、それが有用であり、本質的な意味を持っているときに「創造的知:といったものになる。                 ’20.2.11.

個人的な事情 2

自我に拠る社会的存在としての我々は「囲いの中の自由」を生きている。
その「囲いの中」で最も重要なのは他者との関係である。
人間は原理的にひとりでは生きていけないからである。
原理的にという意味は、我われ人間が「自我に拠る社会的存在」であることを宿命づけられているということである。
自我に拠る・・・」ことで、必然的に人間は不完全な存在である。
誰もが「ことの半分」をしか生きられないのである。 ’20.2.11.