個人的な事情 8----1

「こころの病気」が、いわゆる病気ではないとすれば何なのか?
概念的には「人生の壁にぶつかって存在のぬかるみに足をとられた」といったイメージである。 
それは自由の喪失でもある。
自由がなければ将来を開く意志も希望も持てない。
つまり人生が無意味に傾く。
それは絶望であり、こころの暗闇化である。
その暗さはどのように開いて明るく導けるのか?
信じるときに道は開ける。
暗さは明るさと裏表の関係にあるのだから、暗さがあれば明るさがどこかにある、ということである。
一途にこころが暗く沈むとき、それは生きる意志の喪失でもある。 ’19.11.12.
   
     

 個人的な事情 7

精神科の診療は自分との戦いである。
その意味は、患者さんが提起する問題を精神科医が共有することが精神医療の第一要件である、ということである。
ということは、患者さんの問題は精神科医自身の問題になるという意味になる。
患者さんが提起する「個人的な悩み」は、そのほとんどが「生きる意味と無意味」の問題に還元される。
それは「人生問題」であり、「人間の存在問題」でもある。
従って、それらのかなりの部分が、「誰も知らない」といった意味合いのものである。
従って、精神科医にとって、患者さんは「深い意味を持つ共同存在者」という趣きを持っている。
この「色濃い人間関係」は、世間一般では滅多に得られない意味を持っているのである。
「精神科の診療」は、退屈なとか荷重なといった問題を越えて、人間としてのエキサイティングな意味を原理的には持っている。
仮に患者さんの問題を外部から補佐するといったようなものであれば、疲労の蓄積は避けられないだろう。
その場合は、比喩的にいえば、患者さんが持っている「重たい問題」を医者も共に抱え持つといった、いわば力仕事に類するだろう。
だが、実際は、精神科の医療は、患者さんの問題を精神科医自身の問題に置き換えることになるので、いうならば「自分自身の問題」になる。
自分自身の人生問題、人間の存在に関わる問題になる。
人生問題、人間の存在問題といったモノは誰かが解決するといった性格のものではない。
一般論としては哲学者の問題になるのだろうが、哲学者といえども人生問題、人間の存在問題に私見を提示する以上のことはできない。
こういうことをいえば手前味噌めいてくるようだが、精神科の患者さんと関わる以上は、「活きている人生問題」、「活きている存在問題」というモノに関わらないわけにはいかないのである。
勢い、それは「活きた哲学」といった意味を持っているのである。
そのことには「知的興奮」を伴わないわけにはいかない。
「自分との戦い」というのはそのような意味である。 '20.1.19.