不登校の問題 7

無限空間での微小な星の住人としては、身体とこころを寄り添って生きていく必要がある。
不安、心細さ、そして理不尽さからくる怒りなどといった負性の感情群を、安心感に転換するには「身を寄せ合う」以外にはない。
「あなたは決してひとりではない」というこころを伝えるには、「ただの言葉」だけでは伝わらないだろう。
「こころとこころ」とが繋がるには、「身体とからだ」とが重なり合う必要もある。
それは母親と赤ん坊との関係に似ている。
人生的な危機では、ひとのこころは幼くなる。
恐怖、不安、怒りなどの感情が「本物の助け」を必要とするのである。
だから、接する側は、本物の親だけをもとめる幼い子に対するのと同じように、「寄り添う姿勢」がもとめられる。     ’20.5.22.

 不登校の問題 6

「子供の問題は親の問題」である。
社会的自己を主宰する自我は、子供の場合は未熟なので親が補佐する必要がある。
不登校の子にとっても、自分の気持ちがよくは分からないのである。
そこを、「本人の問題として」問いただしても答えは得られない。
事情がなんであれ、行き詰っているときには「怒りがこころに‘布置する’」ものである。
その怒りは、「真実以外は認めない」といわんばかりに、当人のこころを「護っている」のである。
怒りは相手の影のこころを鋭く読むセンサーのような働きをする。
だから相手によっては「話をしても仕方ない(無意味ということ)」と思っているかもしれない。
従って、怒りを刺激しないためにはうかつなことはいえないのである。
言葉が見つからないときは黙っている方が無難である。
黙って「寄り添う」ことが大事である。
ひとと人との関係では、共感力だけがあいだを取り持つ意味を持つ。
共感性を欠いた言葉は、相手の内心の怒りを助長させるだけである。
安心をもたらすためには、意味のある沈黙も大事である。     ’20.5.22.


    不登校の問題 5

「不登校」は、学校という「囲いの中の自由」を享受できなかった姿である。
それは「囲い」が護りの機能を果たせなかったことを意味している。
「囲い」が護りの意味を果たせなかったのは、本人の問題でもあるだろうが、「囲い」を担う関係者の問題でもある。
本人の問題としては自我が機能不全に陥っていることが第一であるが、それも一様の問題ではない。
本人が育ってきた過程には、親子関係などの複雑な事情があるだろうからである。
こころの内界には不安、恐怖、怒りといった感情が多かれ少なかれある。
それらの負性の感情は、自我を衰弱させるか、逆に強化させるかは個々に事情が違う。
事情がさまざまなので、不登校の子が「ちょっとした助け」で救われるのか、そうではないのかによっても助けに入る大人たちの力量が問われる。
ということではあるだろうが、要は、本人のこころにどこまで寄り添えるかの問題である。       ’20.5.22.

 不登校の問題 4

地球は宇宙に浮かぶひとつの微小な星である。
その微小な星を舞台にして、我われ人間は「自我に拠る個性」を生きている。
宇宙は無限かつ永遠である。
というふうに見える。
我われは自我という有限のモノによって、無限の宇宙を云々する。
その無限の宇宙が「こころに及んでいる無意識界」を拠り所にして、自我は存在している。そして、また、その自我は無意識界に呑み込まれる宿命の下にある。
無限の宇宙から生み出され、やがては、その無限界に没収されるはかない宿命の下にあるのが、我われの人生である、ように見える。
自我という微々たる星が束の間の人生を演出する。
その「微々たる世界」である「自我に拠る社会的存在」は、その社会を他人たちと「共有」している。
その「共有している微小な社会」は「相対的世界」である。
つまり「キミもあなたも似たりよったり」といった「囲いの世界」に我われは共存している。
「囲いの中の自由」を共に生きるのが我われ社会的存在の宿命である。
その「囲いの中」の生活、「相対的な世界」では争いごとが必然である。
悲しいことに、誰か他者との関係で、自分は勝っているのか劣っているのかが、その世界での生きる意味になっている。
それに伴って自尊感情が揺れ動く。
それを世俗的と呼んだりもするが、所詮はそういうものである。    ’20.5.22.

不登校の問題 3

我われ人間が社会生活をする場合の主宰者は自我と呼ばれている。
「私という自己」は組織体である。
自我という「親」に当たる「自己組織の主宰者」があり、「こころの内なる子供たち」があり、自我を監視する超自我がある。
それら自我が主宰する自己組織は、無意識界を拠り所にしている。
その無意識界は「宇宙的無限」がこころに及んだものである。    20.5.22.

不登校の問題 2

対人関係には不安がついてまわる。
我われ人間の存在の構造は「実体的」ではないからである。
人間同士の関係性を生きることが、人生問題、存在問題の主題になっているからである。
その「動的な関係性」には「空隙」がついてまわる。
その空隙をただようものが感情である。
その場での人間関係がうまくいっている場合は、喜び、楽しみといった陽性の感情がただよう。
逆にうまくいかない場合は、不安、哀しみ、怒りなどの負性の感情が漂うことになる。
感情は移ろいやすく、捉え難いので、我われ人間には、一途の安心といったものはない。 ’20.5.22.