「引きこもり」の問題 4

精神医療は科学の世界ではない。
精神医療の対象はモノではなく「こころ(の世界)」である。
いわずもがなともいえるそのことが疎かにされているのは、科学が人間の迷妄を解き放った威力と無関係なわけがない。
科学は明るい世界の王である。
それは「人間の勝利」であった。
では、その以前は何が王座にあったのか?
魑魅魍魎が棲む「昏い時代」を支配していたのは神々であった。
科学の時代に神々の存在理由はなくなったように見える。
だが、人間は争いと共にある。
戦争の脅威はなくなるどころではない。
科学兵器という科学の産物が、人間の殺し合いの道具として進化しつづけている。
科学によって便利な社会になるにつれて、電気の需要が高まるばかりである。
人間の安寧の追求などよりも、資本主義的効率が常に優先される。
その挙句に、地球規模の温暖化現象が人類を危機に陥れている。
この悪循環を止める有効な手立てを人類は見出していない。
禅僧の故・鈴木大拙氏は、「(宗教的世界との対比である)相対的世界(自我に拠る社会的存在と同義である)では、どこを向いても喧嘩ばかり」と述べている。
自然科学至上主義は、自我至上主義と同義である。
その明るい世界には魑魅妙量も神々も棲むことができない。
だが、それは「こころの外界」での話である。
「こころの内界」にある無意識界は無限性の世界である。
「こころの外界」にばかり眼を向けて切り開いた科学的世界は、干からびた精神と世界観と生きる無意味さに対して答える術を持っていない。、
「宗教的世界」とも呼ばれている無意識界、昏い世界に宿る叡智に、我々が救われる知恵を学ばなければならない。
精神医療とは、こうした試みになる。
現代の「精神障害」は「精神の異常現象」と捉え直して、このような試みを必要としているように思われる。        ’19.12.30.



「引きこもり」の問題 3

いわゆる「引きこもり」は精神の病理現象であるのは断るまでもない。
ということを、わざわざいう意味は、「引きこもり」は精神障害ではないということをいいたいからである。
精神科での「用語」の使い方は、内科などの身体科とは根本的に違う。
身体科は科学の世界である。
だから考え方に紛れがあってはならないのが原則である。
一方、精神科は科学の世界に位置してはいない。
もっとも現代の診断基準となっているICD-10(国際疾病分類)は、科学の立場を取っている。
ICD-10は「現在のところ不満足な基準であるが、‘原因’に基づいた疾病分類ができるまでの辛抱・・・」といっている。
医学は科学なので、精神医学も医学の一分野である以上は科学でなければならない、というドグマに基づいてのことである。
そのために「・・・病」の代わりに「・・・障害」という用語を用いている。
「・・・病」というのは原因に基づいた命名という意味があるので、原因が確定されるまでのあいだは、「障害」という用語を充てるということである。
だが、こうしたことは「見解の相違」といったものではない。
というのは、「こころ」には無意識界という無限大の世界があるからである。
科学が通用するのは自我の力がおよぶかぎりでの世界(それは有限の世界という意味になる)に関してである。
科学の成立要件は、新しく創り出されたものの再現性にある。
科学の世界では、実験を繰り返して再現性が確かめられなければならない。
紛れはあってはならないのである。
そのことは「自我の力が及び得る世界」ということを意味している。
自我には対象となるものを意識でつないで明るみの世界をもたらす、という特質がある。
その「明るい世界」でのみ科学は可能である、といえる。
だから、科学の運用は万人がうなづき得るという特質を持っている。 ’19.12.30.


「引きこもり」の問題 2

「引きこもり」の問題の核心は、「自分を護る」ことで自由を犠牲にしていることであるように思われる。
「自分を護る」ことは、誰にとっても最も重要な問題である。
一般にそういう意識が特にはないのは、「護られている」感覚があるからではないだろうか。
その「護られている」無自覚の意識は、大多数が対人関係にあるのだろう。
人が孤立を恐れる所以でもある。
その対人関係の基礎にあるのが母親との関係である。
母親が何かの問題に気を取られて幼い我が子に専心できない場合(母性を尽くせない場合)は、'母親がすべて'の幼い子にしてみると、何よりも重要な安心が損なわれることになる。
母親が見つめる眼の輝きで自分の価値を知る、といわれる。
それが基本的にあれば、心内に安心があるので、長じて、他者一般との関係で
こころが揺らぐことは滅多にないだろう。
その意味で「自信がある」ので、他人の前で、「安心」の幅が広くなる。
そうであれば、他人の目つきの「不審の色」に殊更にたじろぐこともない。 ’19.12.26.






引きこもりの問題 1

「孤独」と「引きこもり」とは近縁の関係にある。
孤独は、’引き受ける’ときに、孤高の精神になり得る。
孤高の精神とは自我と無意識との関係、自己自身との関係を直接的にうかがう精神のことである。
この場合は、他者との関係は二義的な意味になる。
普通一般には、他人との関係を通じて、間接的に、いま述べた自己自身との関係をそれとは意識せずにうかがっているのである。
この場合は他者との関係が一義的で、自己自身との関係は二義的になる。
そこでは他者との関係は意識されるが、自己自身との関係は意識されることはない。
社会生活に限定すれば、他者との関係は生命線になる。
他者によい意味で認知されることで自己の価値意識が得られるからである。
人より優れていることが自己の価値につながるからである。
だが、いうまでもなく、そのように他人たちとの競合で得られた価値は相対的である。                      ’19.12.15.




自己の価値 4

人間は恥知らずな動物である。
熊がヒトを襲うと人間は当然のように熊を‘駆除’する。
熊がひとを襲うのは、山に食べ物が少ないからである。
熊は木の芽やドングリなどを食べる草食獣である。
熊が棲む山に、山、本来の自然の豊かさがあれば、危険を冒して人間を襲う意味はない。
人間が襲われる過半の理由は、人間が自然を破壊したからである。
熊は食をもとめて人里に降りる。
それも自然の成り行きである。
人間が自然を破壊する理由は経済問題にある。
それは自然の成り行きではない。
自我が無意識(の叡智)に従っているかぎり、人間も自然的な世界の一員である。
いわゆる未開人といわれている人種は、自我に拠るよりは「無意識的自己」に拠る存在者である。
そこでは、自我は無意識のしもべである。
一方、「文明人」といわれる我々は、自然への畏敬の念を無意味化して「自我に拠って」存在している。
明るく、便利な現代社会を築き上げたのは自我である。
いつか人間は「無意識界に在る叡智」をあてにすることなく、自我に拠る知恵で現代社会を築き上げた(と信じている)。
そうすることで、過半の人間は「明るく、便利な社会」を手にすることができたことを崇敬して、自我至上主義者であることを疑えなくなっている。
そして、その一方で、魂性をも無視するということにもなっている。
いうならば、現代文明と引き換えに「魂」を売り渡したといっても過言ではないだろう。
魂性は無意識界に在る「自己」の生命性の根源である。
その魂性は「こころの昏さ」に宿るものであり、こころの「明るい世界」を密かに支えることでこころに潤いや、生きている実感を与える源泉である。
この魂性を無視する自我の知恵は浅薄であり、従って驕り高ぶることを避けられない。   ’20.1.16.







                    


自己の価値 3

「恥を知れ」という言葉がある。
それは、おそらく一般の動物にはない。
そこでは力較べで差別化が図られている。
人間が力づくで何かの地位や権力を手にすると顰蹙を買う。
恥知らず、ということになる。
動物は力づくで、人間は知恵比べで秩序を造る。
いずれにしても、秩序がなければ安心が得られないのであるが、両者の違いは自我の有無にある。
自我に拠っている我々人間は、力づく、あるいは本能の赴くままに行動することを恥じとする。
自我は「引き受ける精神」である。
「引き受ける」ことは判断を伴うのである。
判断を伴わず、無反省に「引き受ける」ことは無責任に繋がるので、やがては自分自身に累がおよぶ。
職場で仕事を頼まれて「いいですよ」と心地よく仕事を「引き受けて」、やがて会社に行けなくなる人がある。
この場合は「引き受けて」いるのではない。
「断る」ことができないのである。
「断るという気持ちを引き受ける」ことができないのである。
自我の機能を健全に保つには、原則的にキャパシティを越えてはならないのはいうまでもないだろう。
「断る」という自我の判断機能が不十分であるときに、こういうことが起こる。
そういう場合には不本意ながら、無責任といった事態になる。 ’19.12.16.





自己の価値 2

自我は実にちっぽけなモノである。
それを表しているのが、例えば、めまいである。
めまいは身体の病気でもあり得るが、心理的な意味づけをすると「つかみどころがない感覚」である。
だから耳鼻科で調べても、原因がわからないということも珍しくはない。
我われのこころは「自我に拠っている」。
「自我に拠る社会的存在」が我々の「私という自己」の実相である。
無限大に広がる大空を見上げたときに、自我は「掴みどころのなさ」、「途方もなさ」といった世界に直面することになる。
その「掴みどころがない」感じ、自我がおよびもつかない世界に当面したときにめまいが起こる。
自我が自我を超越した世界に直面すると、自我の関係機能は無効になる。
自我の機能は何事かと(意識によって)関係をつくることなので、人間の意識活動が停止するのである。
こころを語るとき、用語がとかく小難しくなる。
それは、こころが科学的世界ではないために、科学的用語ですべてを語ることができないからである。
こころは「意識化可能の世界」とそれが「不可能の世界」とで成り立っている。
その「不可能の世界」と「可能の世界」とは同列の関係ではない。
両者は比較を絶した関係である。
こころの世界に内在している比較を絶した無辺際な無意識界は、「名づけ得ないモノ」の世界である。
科学の世界は自我が主宰する世界の範疇での出来事なので、具体的な名を与えることが可能である。
つまり「名づけ得る」世界は、自我の能力が有効な世界にかぎる。
それが我われの現実相である。
圧倒的な勢力を持っている「名づけ得ない世界」、現実相ではない世界も「こころにはアル」ということである。
その名づけ得ない世界は、宇宙的無限に繋がっている。
その「途方もない世界」がこころに及んでいるのが無意識界である。
無意識界は宇宙的無限と「自我に拠る社会的存在」である我われ人間を橋渡ししているのである。
それが科学的に見た、人間存在の俯瞰図である。
だが、人間存在そのものを「俯瞰する」資格も能力も人間にはない。
つまり、こころの全体を科学的に語ることは本来的に不可能であるのだが、そういうことを踏まえた上で, 敢えて、こころを言葉で語ろうとすれば、「新奇な用語使い」にならざるを得ないのである。
無意識界は宗教的世界とも呼ばれている。
それは誰もが分かるような説明は科学の領域、言葉を換えれば自我の機能が活きている世界に限るのだが、こころにはそれをはるかに超越した領域もあるといった意味である。
宗教的説話は科学的にものを考える習慣がある人には馬鹿げた無駄話に聞こえるだろう。
だが、人間の問題を科学の言葉で語りつくそうとすることこそ馬鹿げた話である。
名づけ得ない世界は、科学的に俯瞰することが不可能であり、語り得ない世界なのである。             ’19.12.6.







自己の価値(科学的世界と宗教的世界ー自我の世界と無意識の世界) Ⅰ

自尊感情といわれているものがある。
自分の存在価値への思い、といった意味である。
この感情は重要である。
自尊感情が低いと自己否定感に傾くからである。
人生の全体が暗くなるからである。
生きる意志と生きる意味とが薄れて感じられるからである。
自尊感情の低落と「こころの病い現象」とは密接な関係がある。
我われは他人と較べて自分の価値を図る習性がある。
他人はどうしても気になるものである。
他人との関係をうまく造れないと生きる不安が強くなる。
それが一般である。
だが、本当は自分自身との関係を築くことに鍵がある。
それは自己自身との関係になる。
いずれにせよ、「(社会的)自己」を導く主宰者は自我である。
そして自我は自己の内界(無意識界)にある自己自身といった「自己」の礎えとの関係を形づくることに本分がある。
その無意識界は、それぞれの「自己」が生まれ出てきた根源である。
芸術家などの天才たちは、このこころの内界を自ずから志向する自我の持ち主である。’19.12.3.