自己の価値 2

自我は実にちっぽけなモノである。
それを表しているのが、例えば、めまいである。
めまいは身体の病気でもあり得るが、心理的な意味づけをすると「つかみどころがない感覚」である。
だから耳鼻科で調べても、原因がわからないということも珍しくはない。
我われのこころは「自我に拠っている」。
「自我に拠る社会的存在」が我々の「私という自己」の実相である。
無限大に広がる大空を見上げたときに、自我は「掴みどころのなさ」、「途方もなさ」といった世界に直面することになる。
その「掴みどころがない」感じ、自我がおよびもつかない世界に当面したときにめまいが起こる。
自我が自我を超越した世界に直面すると、自我の関係機能は無効になる。
自我の機能は何事かと(意識によって)関係をつくることなので、人間の意識活動が停止するのである。
こころを語るとき、用語がとかく小難しくなる。
それは、こころが科学的世界ではないために、科学的用語ですべてを語ることができないからである。
こころは「意識化可能の世界」とそれが「不可能の世界」とで成り立っている。
その「不可能の世界」と「可能の世界」とは同列の関係ではない。
両者は比較を絶した関係である。
こころの世界に内在している比較を絶した無辺際な無意識界は、「名づけ得ないモノ」の世界である。
科学の世界は自我が主宰する世界の範疇での出来事なので、具体的な名を与えることが可能である。
つまり「名づけ得る」世界は、自我の能力が有効な世界にかぎる。
それが我われの現実相である。
圧倒的な勢力を持っている「名づけ得ない世界」、現実相ではない世界も「こころにはアル」ということである。
その名づけ得ない世界は、宇宙的無限に繋がっている。
その「途方もない世界」がこころに及んでいるのが無意識界である。
無意識界は宇宙的無限と「自我に拠る社会的存在」である我われ人間を橋渡ししているのである。
それが科学的に見た、人間存在の俯瞰図である。
だが、人間存在そのものを「俯瞰する」資格も能力も人間にはない。
つまり、こころの全体を科学的に語ることは本来的に不可能であるのだが、そういうことを踏まえた上で, 敢えて、こころを言葉で語ろうとすれば、「新奇な用語使い」にならざるを得ないのである。
無意識界は宗教的世界とも呼ばれている。
それは誰もが分かるような説明は科学の領域、言葉を換えれば自我の機能が活きている世界に限るのだが、こころにはそれをはるかに超越した領域もあるといった意味である。
宗教的説話は科学的にものを考える習慣がある人には馬鹿げた無駄話に聞こえるだろう。
だが、人間の問題を科学の言葉で語りつくそうとすることこそ馬鹿げた話である。
名づけ得ない世界は、科学的に俯瞰することが不可能であり、語り得ない世界なのである。             ’19.12.6.