不登校の問題 5

「不登校」は、学校という「囲いの中の自由」を享受できなかった姿である。
それは「囲い」が護りの機能を果たせなかったことを意味している。
「囲い」が護りの意味を果たせなかったのは、本人の問題でもあるだろうが、「囲い」を担う関係者の問題でもある。
本人の問題としては自我が機能不全に陥っていることが第一であるが、それも一様の問題ではない。
本人が育ってきた過程には、親子関係などの複雑な事情があるだろうからである。
こころの内界には不安、恐怖、怒りといった感情が多かれ少なかれある。
それらの負性の感情は、自我を衰弱させるか、逆に強化させるかは個々に事情が違う。
事情がさまざまなので、不登校の子が「ちょっとした助け」で救われるのか、そうではないのかによっても助けに入る大人たちの力量が問われる。
ということではあるだろうが、要は、本人のこころにどこまで寄り添えるかの問題である。       ’20.5.22.

 不登校の問題 4

地球は宇宙に浮かぶひとつの微小な星である。
その微小な星を舞台にして、我われ人間は「自我に拠る個性」を生きている。
宇宙は無限かつ永遠である。
というふうに見える。
我われは自我という有限のモノによって、無限の宇宙を云々する。
その無限の宇宙が「こころに及んでいる無意識界」を拠り所にして、自我は存在している。そして、また、その自我は無意識界に呑み込まれる宿命の下にある。
無限の宇宙から生み出され、やがては、その無限界に没収されるはかない宿命の下にあるのが、我われの人生である、ように見える。
自我という微々たる星が束の間の人生を演出する。
その「微々たる世界」である「自我に拠る社会的存在」は、その社会を他人たちと「共有」している。
その「共有している微小な社会」は「相対的世界」である。
つまり「キミもあなたも似たりよったり」といった「囲いの世界」に我われは共存している。
「囲いの中の自由」を共に生きるのが我われ社会的存在の宿命である。
その「囲いの中」の生活、「相対的な世界」では争いごとが必然である。
悲しいことに、誰か他者との関係で、自分は勝っているのか劣っているのかが、その世界での生きる意味になっている。
それに伴って自尊感情が揺れ動く。
それを世俗的と呼んだりもするが、所詮はそういうものである。    ’20.5.22.