「引きこもり」の問題 2

「引きこもり」の問題の核心は、「自分を護る」ことで自由を犠牲にしていることであるように思われる。
「自分を護る」ことは、誰にとっても最も重要な問題である。
一般にそういう意識が特にはないのは、「護られている」感覚があるからではないだろうか。
その「護られている」無自覚の意識は、大多数が対人関係にあるのだろう。
人が孤立を恐れる所以でもある。
その対人関係の基礎にあるのが母親との関係である。
母親が何かの問題に気を取られて幼い我が子に専心できない場合(母性を尽くせない場合)は、'母親がすべて'の幼い子にしてみると、何よりも重要な安心が損なわれることになる。
母親が見つめる眼の輝きで自分の価値を知る、といわれる。
それが基本的にあれば、心内に安心があるので、長じて、他者一般との関係で
こころが揺らぐことは滅多にないだろう。
その意味で「自信がある」ので、他人の前で、「安心」の幅が広くなる。
そうであれば、他人の目つきの「不審の色」に殊更にたじろぐこともない。 ’19.12.26.






引きこもりの問題 1

「孤独」と「引きこもり」とは近縁の関係にある。
孤独は、’引き受ける’ときに、孤高の精神になり得る。
孤高の精神とは自我と無意識との関係、自己自身との関係を直接的にうかがう精神のことである。
この場合は、他者との関係は二義的な意味になる。
普通一般には、他人との関係を通じて、間接的に、いま述べた自己自身との関係をそれとは意識せずにうかがっているのである。
この場合は他者との関係が一義的で、自己自身との関係は二義的になる。
そこでは他者との関係は意識されるが、自己自身との関係は意識されることはない。
社会生活に限定すれば、他者との関係は生命線になる。
他者によい意味で認知されることで自己の価値意識が得られるからである。
人より優れていることが自己の価値につながるからである。
だが、いうまでもなく、そのように他人たちとの競合で得られた価値は相対的である。                      ’19.12.15.




自己の価値 4

人間は恥知らずな動物である。
熊がヒトを襲うと人間は当然のように熊を‘駆除’する。
熊がひとを襲うのは、山に食べ物が少ないからである。
熊は木の芽やドングリなどを食べる草食獣である。
熊が棲む山に、山、本来の自然の豊かさがあれば、危険を冒して人間を襲う意味はない。
人間が襲われる過半の理由は、人間が自然を破壊したからである。
熊は食をもとめて人里に降りる。
それも自然の成り行きである。
人間が自然を破壊する理由は経済問題にある。
それは自然の成り行きではない。
自我が無意識(の叡智)に従っているかぎり、人間も自然的な世界の一員である。
いわゆる未開人といわれている人種は、自我に拠るよりは「無意識的自己」に拠る存在者である。
そこでは、自我は無意識のしもべである。
一方、「文明人」といわれる我々は、自然への畏敬の念を無意味化して「自我に拠って」存在している。
明るく、便利な現代社会を築き上げたのは自我である。
いつか人間は「無意識界に在る叡智」をあてにすることなく、自我に拠る知恵で現代社会を築き上げた(と信じている)。
そうすることで、過半の人間は「明るく、便利な社会」を手にすることができたことを崇敬して、自我至上主義者であることを疑えなくなっている。
そして、その一方で、魂性をも無視するということにもなっている。
いうならば、現代文明と引き換えに「魂」を売り渡したといっても過言ではないだろう。
魂性は無意識界に在る「自己」の生命性の根源である。
その魂性は「こころの昏さ」に宿るものであり、こころの「明るい世界」を密かに支えることでこころに潤いや、生きている実感を与える源泉である。
この魂性を無視する自我の知恵は浅薄であり、従って驕り高ぶることを避けられない。   ’20.1.16.







                    


自己の価値 3

「恥を知れ」という言葉がある。
それは、おそらく一般の動物にはない。
そこでは力較べで差別化が図られている。
人間が力づくで何かの地位や権力を手にすると顰蹙を買う。
恥知らず、ということになる。
動物は力づくで、人間は知恵比べで秩序を造る。
いずれにしても、秩序がなければ安心が得られないのであるが、両者の違いは自我の有無にある。
自我に拠っている我々人間は、力づく、あるいは本能の赴くままに行動することを恥じとする。
自我は「引き受ける精神」である。
「引き受ける」ことは判断を伴うのである。
判断を伴わず、無反省に「引き受ける」ことは無責任に繋がるので、やがては自分自身に累がおよぶ。
職場で仕事を頼まれて「いいですよ」と心地よく仕事を「引き受けて」、やがて会社に行けなくなる人がある。
この場合は「引き受けて」いるのではない。
「断る」ことができないのである。
「断るという気持ちを引き受ける」ことができないのである。
自我の機能を健全に保つには、原則的にキャパシティを越えてはならないのはいうまでもないだろう。
「断る」という自我の判断機能が不十分であるときに、こういうことが起こる。
そういう場合には不本意ながら、無責任といった事態になる。 ’19.12.16.