日記より 2


 ネットによるいじめ、中傷のニュースがしばしば報道される。
 闇に紛れて他人を中傷するのは、いうまでもなく卑怯である。
 夜陰に乗じる悪党の心理と近いともいえる。
 私個人も経験がある。
 「薬を大量に出されるので転医したらすぐに治った」・・・という中傷がネットに載っていると聞かされたことがある。
 仮に私の患者さんがしたことであれば一大事である。
 その場合は憤慨するよりは自分を恥じるしかないだろう。
 だが、そういう患者さんはいないと信じる理由がある。
 「そもそも、‘こころの病気’は‘薬で治す‘ものではない」ということを、折に触れて患者の皆さんにお伝えしているからである。’19.11.4.

日記より   1

 ※月※日:
 自殺をしてはならない理由は、自然に逆らうのは人間の分ではないというところにある。
 自殺は人間の営為であり、人生は自然の営為である。                            



 ※月※日:
 人間の営為とは「自我に拠る社会的存在」の営みのことである。
 自然の営為とはこころの内界である無意識の意向のことである。
 無意識の意向が「内心の声」となるのは、自我を通じて密かに意識上に届けられた場合である。 


                       
 ※月※日:
  自我に拠る社会的存在としての我々は「囲いの中の自由」を生きている。
 「囲いの中」での最も重要なのは他者との関係である。
  自己と他者とは相対的関係にある。
  だから「囲いの中の自由」を生きている我々は、しばしば他者と「パイの奪い合い」にな   
  る。                                               ’19.10.24.

精神科より「自我に拠る社会的存在」について2 2018年8月30日 記

自我が主宰する意識の世界は、「それ自体」の世界ではありません。
「それ自体」というのは、何ものにも依存せず自己完結している「一様の世界」といった意味です。
そういう性格を持っているのが無意識界です。
「自我に拠る社会的存在」は「一様の世界」である無意識界に依存しています。
このことは無意識界が、人間(社会的存在)が依存を不可欠のこととしていることの根底にあるモノであることを指し示しています。
そして、そのことは、「一様の世界」である無意識界は言葉を換えると「全体性の性格」であることを、依存を生きる宿命の下にある「自我に拠る社会的存在」は、「相対的世界」の存在者であるということをも指し示しています。’18.8.30.


囲いの中の自由 2019年8月21日 記

#-1:「人生は不可解なり」という遺書を残して華厳の滝に身を投じた若者がいた。
    明治時代の話である。
    新聞等で報道されたこともあり、後追い自殺が続出したという。   
華厳の滝が自殺の名所になったともいわれている。



#-2:「人生は不可解」なのはいうまでもない。
    だが、それと自殺とは直接の関係がないのもいうまでもないだろう。
「人生は不可解」でなければ生きる意味がなくなるからである。
不可解であればこそ、「自分の生きる道」を探り出す理由がある。
「答えのない道」の中に、自分流の「道」を探り出すところに生きる理由がある
に違いないと思うからである。
だが、何が「自分の道」であるのか確かめる術はない。



#-3:答えのない道の中に「自分らしさ」という道を探り出すことは困難を極めている。
だから「道を間違える」、「道に迷う」ことで不安、絶望に捉えられることは人生にはついて回ることである。
    それを乗り越えるのは自我の「引き受ける精神」の起動力にかかっている。
    あるいは他者との協働関係があるかないかが人生を分けることになる。
                                        '19.8.21.

精神医療の問題「ずいそう」4 2019年4月7日 記

生命活動はすべて生命的エネルギーに支えらえている。
動物一般は本能に従って行動する。
本能とは何かといえば、生まれたときに与えられている生命的エネルギーとその流路とに従って生きるという意味である。
流路というのは、動物がそのときどきの目的に向かって行動するときにエネルギーが動員されることになるのだが、そのエネルギーを通す通路というほどの意味である。
生命的エネルギーとエネルギーの流路とは、生命体が生まれたときに身体あるいは心身に与えられているのはいうまでもない。
人間が動物一般の中で特殊な位置にあるのは、人間に付与されている自我に拠っている。
つまり人間は「自我に拠る社会的存在」である、というところにある。’19.4.7.