自己の価値 4

こうしたふうに無分別な分別をめぐらす理由は、我われには「分からないものが在る」という単純な事実からである。
そして、もうひとつは「希望がなければ生は成り立たない」からである。
希望を失って自死に思いを馳せる、といったことはある。
そういう方向へこころが動いていくのが「こころの病い現象」である。
死が厳然として生に立ちはだかっているかぎり、死を待望するこころがあっても不思議はない。
そして、だからといって、「死を思うのは当然です」などというのであれば、精神医療などは無用である。
そういうことも踏まえていえば、死は希望であるという逆説めいたことが見えてくるように思われるのである。
そもそも、さっさと死んだ方がましな生などあり得るだろうか、というのが素朴な疑問である。
疑問を持つことには、それだけの理由があるのである。
何かへの疑問は、その何かに「応えるために在る」のではないか?
さもなければ、そもそも疑問が存在する理由はないのではないだろうか。 ’20.2.24.


                    


自己の価値 3

我われ人間が向かう究極にあるのは死である。
死は生きた全体を無化するように見える。
我われは、人生とは何であるかという究極の問いにどう答えるのか?
それは難解である。
答えがないようにも思われる。
そのように思われる理由は、死の存在を意味づけすることができないからではないだろうか?
死は自我の能力を超えたものである。
だから死の問題は不問に付すしかない、といったことであるようにも思われる。
だが、そこのところ、死が、自我に拠っている我々人間の宰領範囲を超えたものであるが故に、「死は無限である」と答えることができるのではないか?
自我に拠る生は有限である。
だから、死は生の終焉であるのだが、そのことは「自我の能力を超越した世界が在る」といえるのではないか?
所詮は、自我の立場で理解するしかないのであるが、その立場でいえば、「無限界はアル」というべきではないだろうか?
合理的世界は非合理的世界がなければ成り立たないのである。
自我が理解できる世界があるということは、自我が理解できない世界がアルということである。
それが自我に拠る我われのいい分でなくて何があるのだろうか。 ’20.2.24.

自己の価値 2

自尊感情を具体的にいいあらわすことはできない。
それは気分的表現だからである。
気分といえば掴みどころがないと感じるかもしれない。
だが、気分には言葉とは較べようがないほどの重い意味がある。
言葉は気分という母体から取り出された一つの意味に過ぎない。
つまり、気分は複数の意味の複合体である。
その気分は自我と無意識との関係で意識上に表れる。
芸術家や研究者、思想家などの特異な才能を持った人たちの自我はこころの内界に向かう。
そして、一方、ふつうの意味での生活者の自我はこころの外界に向かう。
その外界で最重要なのは他者である。
このことは我われ人間が向かうべき究極のものが何であるかを示唆している。 ’20.2.24.

自己の価値  Ⅰ

自尊感情といわれているものがある。
それは自分の存在価値への思い、といった意味である。
この感情は重要である。
自尊感情が高ければ自己の価値意識が高くなり、低いと自己否定感に傾くからである。
自尊感情が低いと人生の全体が暗くなる。
生きる意志と生きる意味とが薄れて感じられる。
「こころの病い」は、自尊感情が低落することに伴って起こる現象である。 ’20.2.23.

 個人的な事情 8----1

「こころの病気」が、いわゆる病気ではないとすれば何なのか?
概念的には「人生の壁にぶつかって存在のぬかるみに足をとられた」といったイメージである。 
それは自由の喪失でもある。
自由がなければ将来を開く意志も希望も持てない。
つまり人生が無意味に傾く。
それは絶望であり、こころの暗闇化である。
その暗さはどのように開いて明るく導けるのか?
信じるときに道は開ける。
暗さは明るさと裏表の関係にあるのだから、暗さがあれば明るさがどこかにある、ということである。
一途にこころが暗く沈むとき、それは生きる意志の喪失でもある。 ’19.11.12.