個人的な事情   8-3

我われ精神科医は自分のことさえ分かっているというよりは、何も分かっていないというのが実態である。
その知り得ない存在者を少しでも理解していくことを求められているのが精神科医である。
何かの専門的知識を持っている者が精神科医である、などとはいえないのである。
哲学者や思想家も人間存在という永遠に不可知なモノを問う役目を負っている。
それらの人たちは、時として同業者から「講壇学者」と非難される。
それは、オリジナリティの追求に徹しているか、社会に迎合していないかといった問題である。
我われ精神科医は思想家のような独自性は無用である。
患者さんたちといった実生活者が提起する諸問題が問題となるので、社会的な意味の追求になる。 '20.3.4.

個人的な事情 8-2

ブログは自己研鑽の場である。
私の場合はそうである。
自己研鑽の意味は、患者さんが提起するもろもろの問題に。備えることである。
Aという患者さん、Bという患者さんなど、あらゆる患者さんとの関係で問題となるのは、提起される問題の新奇性である。
似たり寄ったりという問題も多いが、個性が違う分、人さまざまに、自分の問題を取り扱いかねているといえる。
ひとによる違いはそれぞれが生きて来た事情が異なるからであるのはいうまでもない。
人の経験はさまざまに違うのだが、そのいずれもが人間存在という根源に向かうにつれて一様の構造になっていく。
そして、その「根源」は基本的に不可知である。
それは科学の世界の話ではないので、理解ではなく了解できるかどうかの問題である。 '20.3.4.

精神医療 随想 10  不登校の問題 10

かつて、医療刑務所で仕事をしていたときの話である。
所長に呼ばれて部屋を訪れたときに、刑事と名乗るひとがいた。
殺人事件で犯人は逮捕されているのだが、被害者が埋められている場所を突き止めたいという。
を割らない被疑者に、どう接したらよいのかという。
埋められている被害者を発見することで、せめてもだが、報いてあげたい」という。
捜査官の姿勢に、こころが打たれるものがあった。
そのときに、「寄り添うようなこころ」の話をした。
後日、被害者を発見できたという知らせを受けた。 ’20.5.22.