精神科より「自我に拠る社会的存在」について3 2018年9月5日 記

こころは「小宇宙」といわれることがあります。
そのことは、無意識界は無限性の性格を持っている大宇宙がこころに及んでいるということを意味しているようでもあります。
それは同時に、心というもの、人間存在というものが大宇宙から派生されたものであるということを示唆しているようにも思われます。
以上のことは自我が無意識に落ちる(没収される)と、それが、つまり「死」であることから類推されることです。
こうした議論の正当性は、精神医療に意味のある還元可能か否かにかかっています。
精神医療の現場では、精神科医と患者さんとの関わりから自ずから「人間存在とは何か?」という
方向へ無限の歩みがあるのです。
精神科の患者さんの苦悩は、とどのつまり「人生の壁に阻まれて身動きできない」ということであり、それは「存在のぬかるみに足を取られた」といった存在をかけた戦いになるのです。
いうならば解の無い問いともいえるのです。
そういう医者―患者状況で、両者の共感性が鍵を握ります。それがなければ精神医療は成り立ちません。
患者さんが次のような体験を語ることがあります。
「このごろ調子がわるい。たぶん気圧のせいだと思う」といったモノです。
この話題は、何人もの患者さんが口にしておりました。
中には、台風が発生すると、すぐに分かるという患者さんもありました。
こんな例もあります。
ある患者さん(いわゆるボーダーライン)の母親が、いきなり電話をかけてきて「あんた、いま切った(自傷)でしょう」というそうです。それは一度ならずあったそうで、ことごとく図星を指しているそうです。ちなみに、その母親は九州地方に住んでいます。’18.9.5

精神科より「自我に拠る社会的存在」について1 2018年8月27日 記


「自我に拠る社会的存在」という用語が汎用されるので、この用語について説明しておきます。
自我は(自己の世界の)意識世界の中心と呼ばれています。
もっとも自我と自己との概念は同一の扱いを受けることもあるなど、それらの概念は歴史的に混乱しています。
自我、自己についてここではユング派の論客であるヤコービに従っています。
自我が意識世界の中心であるということは、こころには無意識の世界があることをも意味しています。
その無意識世界の中心は自己と呼ばれています。
無意識世界は無限界に通じるので、「名づけ得ない」世界です。
「名をつける」ことは有限の世界で可能であり、意味もあります。
有限の世界ということは、個々さまざまなモノ、人などがある(居る)という意味を含んでいるので、それぞれのモノや人の名をつける必要があります。
その意味と必要とは自我に内属している知力、判断力と直接的な関係があり、命名もそれに伴った一連の出来事と考えられます。
一方で無意識は「一様の世界」なので名をつける意味も必要もありません。
また無意識は自我の母体であって自我が従属者の立場にあるので、自我がこの世界に力をおよぼすことはできません。
自我は人間のシンボルです。
「自我に拠る社会的存在」というのは、人間存在の主要な構成要員は無意識と自我なのですが、有限界のモノである自我が終焉にいたるまでの存在という意味を含んでいます。
ということは、死によって我われ人間はどうなるのかという問題をも含んでいます。
意識世界の主宰者である自我は、意味を紡ぎだすことでそれぞれの「自己」に固有の世界を演出します。
それは、そのときどきの対象と関係をつなぐ(意識化する)ことによって、その対象に名を与えることと一連のことです。18.8.27.

こころの病気についてーその前提としての問題 4 2018年6月11日 記

 現象といえば、雲をつかむような印象を受けるかもしれません。
その一方で、「見た」、「聞いた」といったことであれば、ゆるぎない事実という思いがあるのではないでしょうか。
例えば、Aなる人物が「先日、ユーホーを見た」といえば、信じる人もあれば、信じない人もあるでしょう。まるきり信じない人は気にもとめないでしょうし、Aに信頼を寄せるひと(Kとしておきます)であれば確かめにいこうとするかもしれません。
この「見た」という話は「科学的レベル」の問題です。それは知覚が捉えたという意味で、客観的事実に関することになります。その話を伝達している人がでたらめをいっているのではないということが前提になって、それは事実問題です。
ちなみに事実問題というのは、実体があってそれを捉えたという意味ではありません。あくまでも知覚が捉えたということにとどまるので、知覚的実在というものになります。
先にも述べたように、「私が意識した」かぎりであらゆるものが存在します。そういう意味を込めて、あらゆる「事実」は「私の世界」での出来事です。「私」を措いてはいかなる事実も存在しません。存在し得ません。
A氏に信頼を寄せる人であれば「科学的に証明」しようと、ユーホーの実在を確かめに行こうとする気にもなるのです。
一方で、そうしたことを含めて、信頼する、しないにかかわらず「ユーホーを見た」という話をAから聞き、それを確かめにいこうとするKは、Kの現象的世界の主人公です。
そのKにユーホーの話をしたAは、そのかぎりでKの現象的世界に参入している共同存在者ということになります。
Aが現実の者であれ、Kの想像上の人物であれ、Kの眼差し(Aを意識しているということ)がAに向かっているかぎりにおいて、目下のKの現象的世界はAとの関係が焦点となって展開されます。

追記:知覚的実在についてつけ加えます。
「私」が町中を歩いていて、通りすがりの家の庭に咲いているバラの花を見かけたとします。
それは「バラの花という実体」が「私」とは無関係に存在していて、たまたま、それを「私」が「見る」機会があったといったコトではありません。
そうではなく、そのバラの花は「私」が目で見るという意識の仕方によって存在可能となったという問題です。
もしかすると、そのバラの花は実体としても存在しているのかもしれません。しかし、私がそのような可能性を意識することによってのみ、それは可能態になるのです。

追記の追記:このように聞くに耐えないようなことを縷々述べるのは、「こころの病気」という問題を捉える上で欠かせないことだからです。
こころを捉える努力なしに、「こころの困難」に立ち向かう術はありません。そのための手掛かりになれないだろうか、という試みです。'18.6.11

コラム1 2018年5月27日 記

うつ病であれ、神経症であれ、「こころの病」は内科などでいう「病気」とは本質が違います。
例えば、内科で「胃が痛い」という訴えがあれば、身体を触ったり、血液検査をしたり、場合によっては胃カメラ検査をしたりして「病気」を特定します。
同じことを精神科で訴えた場合は、心因性のモノである可能性が問われることになります。
つまり内科などの身体科では患者さんそのものが問われるのではなく、一般論としての身体が問われ(ます。
それは言葉を換えれば,医者―患者の双方ともに「こころにとっての外的な問題」が問われることになります。
一方、こころの問題では患者さんそのものが問いの対象になります。つまり「こころにとっての内的な問題」が問われます。 
問うのは常に自我と呼ばれているモノです。
自我というのは「社会的存在としての自己」の主宰者です。それぞれの「私」である自己は社会的存在であることのほかに「自己自身との関係を生きる」モノでもあります。この自己自身とうのは、いうならば自己の原基です。自己が自己であるためには、その根拠となるべきものが必要です。「私」が生まれたときに備え持っている私自身であることの原基がなければ、「私が私として存在する理由」がありません。その「理由」はいうならば天与のものであり、自然の摂理の下にあると考えざるを得ないのです。
我われ人間も他のあらゆる存在と同じく、人間が創ったのでなければ、自然の摂理の下にあると考えるしかありません。まさか「私」という自己を創ったのは親であるとはいえないのです。産んだのは親であっても、その親が「私」という赤ん坊を産みだすあらゆるプロセスを主導したわけではないのは、いうまでもないことです。'18.5.27.

コラム3 2018年5月27日 記

「私」というそれぞれの自己は現象世界の住人であるということが、こころの問題を捉える前提です。
それは意識するかぎりであらゆるコトが存在可能であるという意味でもあります。あらゆる存在が「私」が意識できるかぎりで可能であるという意味でもあります。
「私」が不在であっても、Aという人物が存在しているというのは自明ではあります。しかし、その自明性の前提は「私」がAを意識するかぎりで可能であるということです。
私がただの一度も会ったこともなければ聞いたこともない人は無数にあるでしょう。それでも、私がそうしたことを意識することがなければ存在しないに等しいのです。
このように「私」が意識するかぎりで「世界は存在する」ということが現象的世界の意味です。
このことは意識を失って倒れた人を、救急医が、意識があるかないかと判定するのと軌を一にしています。意識が働かなければ、何事も存在しないことを意味します。
そのことは「私」の存在を措いては「世界は存在しない」、あるいは「実体としての世界は存在しない」という意味をも表しています。
以上に述べたことは、うつ病等の「こころの病い現象」、延いては人間存在の問題などを捉える上で大前提になる重要な問題です。'18.5.27.