囲いの中の自由 2019年8月21日 記

#-1:「人生は不可解なり」という遺書を残して華厳の滝に身を投じた若者がいた。
    明治時代の話である。
    新聞等で報道されたこともあり、後追い自殺が続出したという。   
華厳の滝が自殺の名所になったともいわれている。



#-2:「人生は不可解」なのはいうまでもない。
    だが、それと自殺とは直接の関係がないのもいうまでもないだろう。
「人生は不可解」でなければ生きる意味がなくなるからである。
不可解であればこそ、「自分の生きる道」を探り出す理由がある。
「答えのない道」の中に、自分流の「道」を探り出すところに生きる理由がある
に違いないと思うからである。
だが、何が「自分の道」であるのか確かめる術はない。



#-3:答えのない道の中に「自分らしさ」という道を探り出すことは困難を極めている。
だから「道を間違える」、「道に迷う」ことで不安、絶望に捉えられることは人生にはついて回ることである。
    それを乗り越えるのは自我の「引き受ける精神」の起動力にかかっている。
    あるいは他者との協働関係があるかないかが人生を分けることになる。
                                        '19.8.21.

精神医療の問題「ずいそう」4 2019年4月7日 記

生命活動はすべて生命的エネルギーに支えらえている。
動物一般は本能に従って行動する。
本能とは何かといえば、生まれたときに与えられている生命的エネルギーとその流路とに従って生きるという意味である。
流路というのは、動物がそのときどきの目的に向かって行動するときにエネルギーが動員されることになるのだが、そのエネルギーを通す通路というほどの意味である。
生命的エネルギーとエネルギーの流路とは、生命体が生まれたときに身体あるいは心身に与えられているのはいうまでもない。
人間が動物一般の中で特殊な位置にあるのは、人間に付与されている自我に拠っている。
つまり人間は「自我に拠る社会的存在」である、というところにある。’19.4.7.

精神医療の問題「ずいそう」5 2019年3月31日 記

自我もまた、生まれたときに与えられているものである。
その自我は人為の世界を構築する主宰者である。
こころは宇宙的無限につながる無意識を母体として「自我に拠る小世界」が、あるいは「自我に拠る社会的存在」が構築される体裁になっている。
つまり無意識という自然界そのものの上に人為の世界が構築されるのが、人間存在の在り方である。
つけ加えれば、「自我に拠る社会的存在」は人為の世界であるのだが、それは宇宙的無限につながる無意識界を母体としているということである。
この人知を超えた人間存在の在り方は(こころの在り方)は有限である。
つまり自我に拠る社会的存在としての我々人間は、いってみれば不可知の世界の上の可知の世界といった趣を持っている。
いうならば、その自我は「この世のモノ」としての人間の在りようを託されているのである。’19.3.31.

精神医療の問題「ずいそう」3 2019年3月13日 記

光と影3
いささか脱線することになるが、精神医療の現場においても、患者さんの姿勢としては医者に教えてもらおうとするのは正しくない。
医者―患者関係において求められているのは、両者の協働において患者は患者自身の、医者は医者自身の自分の内奥の声に耳を傾けることをである。
そして、その上で改めて医者―患者関係の協働があるべきである。
そうした「活きた治療関係」の上に意味のある産物が得られるだろう。
ここでいう「協働」というのは、医者―患者双方の「治療的意志」といったものが働いていることを前提に、自我―無意識―それぞれの他者の、活きているトライアングルの形成というほどの意味である。
もっとも患者さんは、こころのエネルギーがさまざまな程度に低下しているので、「意志」といっても曖昧になりがちである。
そうした生命的エネルギーが、それなりに満ちてこなければ、治療上の成果は上がらない。
従って、医者のリードの下で、医者―患者のあいだでの信頼関係の醸成が図られる必要がある。
その医者―患者関係の力動が活きたものになっていけば、先ほど述べた「治療的なトライアングル」が活性化して治療上の成果は上がっていくだろう。
ときに患者さんが、何故だか分からないがだいぶ元気になった、といったふうのことを口にする。
それは上に述べたように「理屈」では説明できない治療的力学が働いているからである。’19.3.13.


精神医療の問題「ずいそう」2 2019年3月13日 記

光と影2
光と影とは自我と無意識とに由来する。
それが「こころ」の大枠であるが、しかしながら「こころ」一般といったものはない。
自我と無意識とで「こころ」を語ろうとすれば、人間を論じるのを解剖図をもってするようなものである。
「活きているこころ」を語ろうとするのであれば、「私というそれぞれの自己」に即して語ることになる。
つまり人間を語る上での活きている教材は自己自身である。
こころについて、あるいは人間についての書物は、いかなる名著であっても自己を知る上での手引書の域を出ることはない。
先ほど、「こころを語ろうとすれば、人間を論じるのを解剖図をもってするようなものである」と述べたが、それは書物によって「自己を知ろうとする」ことについても同様である。
優れた先人であればあるほど、人間について問いただそうとしても「自分自身に訊け」といった返事があるばかりだろう。’19.3.13.