精神医療の問題「ずいそう」3 2019年3月13日 記

光と影3
いささか脱線することになるが、精神医療の現場においても、患者さんの姿勢としては医者に教えてもらおうとするのは正しくない。
医者―患者関係において求められているのは、両者の協働において患者は患者自身の、医者は医者自身の自分の内奥の声に耳を傾けることをである。
そして、その上で改めて医者―患者関係の協働があるべきである。
そうした「活きた治療関係」の上に意味のある産物が得られるだろう。
ここでいう「協働」というのは、医者―患者双方の「治療的意志」といったものが働いていることを前提に、自我―無意識―それぞれの他者の、活きているトライアングルの形成というほどの意味である。
もっとも患者さんは、こころのエネルギーがさまざまな程度に低下しているので、「意志」といっても曖昧になりがちである。
そうした生命的エネルギーが、それなりに満ちてこなければ、治療上の成果は上がらない。
従って、医者のリードの下で、医者―患者のあいだでの信頼関係の醸成が図られる必要がある。
その医者―患者関係の力動が活きたものになっていけば、先ほど述べた「治療的なトライアングル」が活性化して治療上の成果は上がっていくだろう。
ときに患者さんが、何故だか分からないがだいぶ元気になった、といったふうのことを口にする。
それは上に述べたように「理屈」では説明できない治療的力学が働いているからである。’19.3.13.


精神医療の問題「ずいそう」2 2019年3月13日 記

光と影2
光と影とは自我と無意識とに由来する。
それが「こころ」の大枠であるが、しかしながら「こころ」一般といったものはない。
自我と無意識とで「こころ」を語ろうとすれば、人間を論じるのを解剖図をもってするようなものである。
「活きているこころ」を語ろうとするのであれば、「私というそれぞれの自己」に即して語ることになる。
つまり人間を語る上での活きている教材は自己自身である。
こころについて、あるいは人間についての書物は、いかなる名著であっても自己を知る上での手引書の域を出ることはない。
先ほど、「こころを語ろうとすれば、人間を論じるのを解剖図をもってするようなものである」と述べたが、それは書物によって「自己を知ろうとする」ことについても同様である。
優れた先人であればあるほど、人間について問いただそうとしても「自分自身に訊け」といった返事があるばかりだろう。’19.3.13.


精神医療の問題「ずいそう」1 2019年3月13日 記

光と影1
精神医療の究極のテーマは死の問題であるように思われる。
死の問題などといえばどぎつく感じられるかもしれないけれども、この問題は精神医療の全容を覆っている。
ということの意味は「光と影」の影は、文字通り日常生活に影を落としているということと、その影は死を淵源としているということである。
死といえば「受け入れがたい」思いがあるかもしれない。
それには、それだけの事情があるのだが、しかながら「死は絶望」というイメージは我われの生の実態に即しているとはいえない。
ある意味で偏見というべきである。’19.3.13.

精神科より「自我に拠る社会的存在」について4 2018年9月7日 記

相対的世界の問題 1
相対的世界というのは、我々人間が「自我に拠る社会的存在」である以上はそうなるのが必然といえる世界です。
砕けたいい方をすれば、キミもアナタもワタシも似たり寄ったり、ということになります。
問題は、似たり寄ったりなので、みんな仲良くとなればいいのですが、実態は力比べ、人に負けるなといった争いごとが絶えなくなります。
禅僧の故・鈴木大拙氏は「この相対社会では、どこを向いても喧嘩ばかり」といっております。
この世界は時空間で囲まれた有限の性格のモノです。
この世界では、それぞれの「自己」がさまざまな他者との依存関係で成り立っています。その相互依存が、この世界の特質でもあるのです。
先にも述べましたが、我々「自我に拠る社会的存在」は無意識界が「全一の世界」であるのに対して、有限の世界のモノであるが故に、さまざまに「個化」された世界です。
そして「個化」されているが故に、「全体性」を目指すダイナミズムを内に秘めています。超越的意志によるとしかいいようがない理由で自我の付与が行われ、それによって「自我に拠る社会的存在」である人間が現存しています。
それは宇宙的全体性の世界と臍の緒のようなもので繋がっている無意識界が母体となって、「自我に拠る社会的存在」としての我われ「自己の存在」が存在していると解釈することが可能のように思われます。
このようにいえば、勝手な思いつきの類と取られるかもしれません。
それに対する回答はたった一つではないにせよ、次のようになります。
日常の診療で多くの患者さんとの関係を通じて提起されている問いが、ある一定の方向を指し示す、というふうなことが起こります。そういう問いが精神科医の内界から湧き起こってくるのです。
その問いに対する一定の解が得られます。
そういうことが起こるのは自我と無意識の協働ができたときです。(自我と無意識との関係は日常的に起こりますが、協働というほどのことが起こるのは自我が一定の格式を持っているときです。自我の真剣さの度合いによるといえます)
その得られた解を改めて診療場面で患者さんに還元することになります。そうしたことを通じて有効性が確かめられるのです。
最終的には患者さんが陥っている「存在の足枷」(心理の世界の問題は、科学的な意味での「原因」といったレベルで解決できる代物では、断じてありません。従って「科学的用語」で語ることはできません)が外れれば、それでいいのです。そして複数の患者さんの軛が外れるのであれば、それは、それなりに普遍性があると考えます。ここで述べているのは、そうしたことが根拠になっています。’18.9.7.



精神科より「自我に拠る社会的存在」について3 2018年9月5日 記

こころは「小宇宙」といわれることがあります。
そのことは、無意識界は無限性の性格を持っている大宇宙がこころに及んでいるということを意味しているようでもあります。
それは同時に、心というもの、人間存在というものが大宇宙から派生されたものであるということを示唆しているようにも思われます。
以上のことは自我が無意識に落ちる(没収される)と、それが、つまり「死」であることから類推されることです。
こうした議論の正当性は、精神医療に意味のある還元可能か否かにかかっています。
精神医療の現場では、精神科医と患者さんとの関わりから自ずから「人間存在とは何か?」という
方向へ無限の歩みがあるのです。
精神科の患者さんの苦悩は、とどのつまり「人生の壁に阻まれて身動きできない」ということであり、それは「存在のぬかるみに足を取られた」といった存在をかけた戦いになるのです。
いうならば解の無い問いともいえるのです。
そういう医者―患者状況で、両者の共感性が鍵を握ります。それがなければ精神医療は成り立ちません。
患者さんが次のような体験を語ることがあります。
「このごろ調子がわるい。たぶん気圧のせいだと思う」といったモノです。
この話題は、何人もの患者さんが口にしておりました。
中には、台風が発生すると、すぐに分かるという患者さんもありました。
こんな例もあります。
ある患者さん(いわゆるボーダーライン)の母親が、いきなり電話をかけてきて「あんた、いま切った(自傷)でしょう」というそうです。それは一度ならずあったそうで、ことごとく図星を指しているそうです。ちなみに、その母親は九州地方に住んでいます。’18.9.5